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月を喰らう

2000年03月26日 23:30




   桜が月を喰らっている


 ぼんやりとそう思った。月光を浴びた花びらはなまめかしく、その歯を月へ開けている。
 月を喰われた夜はどんな色をしているのだろうか。そこだけぽかんと虚空が抜けるのか、代わりの何かがそこを埋めるのだろうか。
 とりとめもないことに思いを巡らしていると、不意に自分以外の気配が近くにいることに気付く。
 気配がした方向に視線を遣ると、見知った少女が佇んでいた。緩やかにたなびく長髪。

「まだ居たの」
「居たら悪い?」

 夜風に流れる涼やかな声。足音静かに桜を踏みしめるその姿はまるでこの世の人間ではないかのようだった。

 いや、訂正しよう。彼女はこの世の人間ではなかった。


 如月千早。早熟の歌姫。
 齢十五にして連れ添った男と恋に落ち、恋に狂った彼女の末路を私は知っている。
 無垢の白桐の箱の中、眠る彼女の身体は既に炎に焼かれていた。ぬらりと光を潜めた黒。原因は未だ解明されていない。
 ただ、焦がれる痛みに絶叫する姿は燐光をまとい、さながら鬼火のようであったという。

 ―― たとえ灰になったとしても、私はあの人のことを愛しているから。

 そう呟く彼女の瞳はとても穏やかなものだった。彼女の身体は風の中に葬られた。


  ―――― 月が燃える ――――


 目の前に佇んでいた千早は、どこから取り出したのだろうか、安物の紙容器を私に手渡した。
 容器の中からはこんこんと水が溢れ出している。今まで彼女が流してきた涙なのかもしれない。千早は哀しそうに私を一瞥した。
 こんな不可思議があってたまるものかと思いもしたが、現に不可思議がこうやって目の前にいるのだから、否定しようもない。

「驚かないのね」
「驚いてるわ。どうやって驚けばいいのか分からないだけ」
「律子らしいわ」
「ただ臆病者なだけよ」

 千早は薄い笑みを浮かべる。同じ事務所で仕事をしていた時の彼女だ。その声も、その姿も、その表情も、一分違わず彼女だった。
 鵺すら寝静まる時、ただ桜の枝が風に揺らぐ音だけが聞こえた。はらはらと散る赤の影。
 あまりにも美しすぎて、思わず散る桜から目を逸らした。

「こんなに綺麗なのに、どうして目を逸らすの」
「綺麗過ぎるから見れないのよ」

 昔からそうだった。美しい話には必ず裏があるものだと思っている。
 眠る白雪姫が屍体であったように、美しいものの中にはいつだって暗くどろりとした何かが這いずり回っている。
 そう思わなければ安心できなかった。美しさを純粋に受け入れるほど、私の心は美しくない。
 だから、桜もきっとそうなのだろうと。

 空だけでは飽き足らず地中までその舌を伸ばし、ぞぞぞと屍をすすり上げているからこそ、淡い血のような色をしているのだと。
 そう思わなければ怖くて見据えることができなかった。一つ息を吐き、私は空を仰いで月を望んだ。

「そういえば、なんでこんなところに来たの?」
「墓参りよ」
「そっちの世界にもそういう慣わしがあるのね」

 まったくもって冗談にすらならない。千早の冗談はいつだってどこかずれている。

「こんなことを何度も繰り返していると、きっと幽霊騒ぎになるわよ」

 夜な夜な現れる幽鬼。そんな三文週刊誌の見出しが思い浮かんで私は苦笑した。 
 そんな私に千早は何か話しかけた。

   ざざぁ ざざぁ

 寂しげに紡がれた言葉は木々の潮騒に溺れ消えてゆく。
 何かとても大切なことを言っていたような気がしたが、私の耳には入らなかった。
 聞きたくなかった。それを受け入れてしまえば最後、私は私でいられなくなる。水はさざ波を立てていた。

「いったいあの時、何があったの」
「……私にも分からない」

 そういえばあの時も満月だった。以前から不安定な言動を見せていた彼女だったが、その日は輪をかけて狂気じみていた気がする。

 うつろな瞳で、何かを形作るかのように虚空へ指を這わせる。
 おぼつかない足取りで、何かを追い求めるように街を歩き廻る。
 ぼそぼそと何かを呼び出すかのように呪文のように呟き続ける。

 その姿は現代に現れた美しき鬼のようだった。
 不安に思った私は千早に聞いたことがある。何があったのか、と。

     彼が来てくれないの。ずっと、ずっと。これだけ長く待っているのに。
     いつまで待っても来てくれない人なんて、結局は死んだ人と同じことなのよ。

 なめらかな口調。だけど鎮められることのない焔がそこにはあった。
 そうだ。彼は私達を頂点へ導いた後、どこかへ行ってしまった。この世にはもっと面白い世界があるからと言い残して。





  ―――― 月が溺れる ――――



 次の日の夜も千早は私のもとに訪れた。小雨がやわらかく降る夜だった。
 今回も墓参りだと彼女は言っていたが、むしろお百度参りと言った方が正しいのかもしれない。
 
 目の前にいる彼女は、あの頃の面影はなく、とても落ち着いているように見えた。
 千早は水を飲みながら、どこか遠いところを眺めている。物憂げな眼差し。溢れる想いを涙で割り、飲んでいるかのようだ。
 だけど、いくら涙を飲みほしても、渇きをいやすことはできはしない。

 数刻思えば人は恋に落ちると言うが、幾年思えば人は狂気に落ちるのだろうか。

 雲間から月影。煙霧に花開く幻光。逆光に照らされる彼女の姿は夢魔の如く、その表情は伺い知れない。
 滴が一つ、枝の先からぽたりと落ちた。

「酔狂なことね」
「現に酔えないのなら、夢に狂うしかないでしょう?」

 千早は妖しげに微笑む。嗚呼そうだ。彼女はこちら側の存在ではない。
 これは彼女の夢で、私はその夢に迷い込んだ旅人みたいなものなのだろう。

「それで、何か用かしら?」
「ええ」

 偶然はそう何度も続かない。千早は私に用があってここに訪れた、そう考えるのが自然だ。そして私は彼女の目的が何かを知っている。
 桜の樹の下、腰かけていた私は千早の手を見つめた。細い指は雪のように青白い。
 瞼を閉じ、深く息を吸う。もしかすると私はこの時を待っていたのかもしれない。ゆっくりと瞳を開けた。

「私が憎いんでしょう?」

 不思議と恐怖感はなかった。凪いだ心のまま、私は彼女の反応を待つ。


 千早が愛した男は、私と恋に落ちた。いや、私が勝手にそう思い込んでいるだけなのかもしれない。
 彼女がこの世のものではなくなった後、傷心の彼が新たな恋に落ちるのにそう時間はかからなかった。

 浮気な人だった。いつだって心は美しいものを求め、瞳は遥か彼方を映していた。その視線の途中に私がいた、それだけの話だ。
 それでも彼は十分魅力的で、私は何とかして彼の瞳の焦点に入ろうとやっきになった。
 どうすれば美しくなれるのか、どうすれば彼の心を惹くことができるのか。それだけを追い求める日々。
 こんな姿を千早が見たらどう思うだろう。そんな罪悪感すら刺激だった。溺れるように夢中になった。
 そして私が頂点に立った時、彼は私を捨てた。興味がなくなったと言った方がいいのだろう。

    別に嫌いになったわけじゃない。ただ、美しすぎて見ていられないんだ。
    美しすぎると、その影が怖くて見ていられない。完成された美しさほど恐ろしいものはないんだ。

 白雪姫の話はその時に彼から聞いたものだ。どうということはない知識なのに、今でも記憶に残っている。
 かわいそうな人。別れ際、私は力の限り彼の頬を叩いた。それが彼との思い出。

 
 千早は戸惑っていた。訳もない。愛した男を取られた彼女からすれば、泣いて許しを乞う方が怒りをぶつけられるはずだから。
 そして、殺したときにも心を痛めないだろうから。
 私は彼女の手を取り、そっと自分の首に押し当てた。

「覚悟はできているから」
「……」

 千早の指は動かない。訳が分からないという表情で私を見つめている。

「どうして、そんなことをしないといけないの?」
「どうしてって、そりゃアンタ」
「もしかして……気付いてないの?」

 思い当った節があったのか、掴んでいた手を急に振りほどかれる。ざざざ、風が桜を揺らす。
 疑念と同情がないまぜになった表情。口を開いては閉じ、開いては閉じ、私にかける適切な言葉が見つからないみたいだった。

「さっさと言いなさいよ」

 数秒の沈黙の後、千早はゆっくりと、澄みきった声で、子供に言い含めるように、私に話した。

「私は律子のことを憎んでいるわ。だけどそんなことする必要はないの」
「だからなんで」
「必要はない、というよりも、そうしたくてもできないのよ」
「くどい。その理由が私は知りたいの」

 彼女は深呼吸し、少し息を留め、こう言った。



   「あなたはもう、この世の人間じゃない」





  ―――― 月が埋まる ――――




 最初は笑えない冗談かと思った。千早の冗談はいつだってどこかずれている。だから今回も冗談なのだと、そう思った。
 だけど、その願いは疑いようもない事実によって崩れ落ちることになった。


        あしがない


 私の脚は、桜の絨毯に溶けたかのように消失していた。


    どこ どこ わたしのあしは どこ 
     なんで いつのまに だれが 
    だれか わたしのあしを かえして


「律子、落ち着いて」
「ねぇ千早、私の足はどこなの?どこに行ってしまったの?」
「律子!!」

 彼女にしては大きすぎる位の声を出して、千早は私の肩を掴んだ。その気迫に一瞬言葉を失う。
 掴む?彼女が?幽霊が?私を掴んでる?
 その意味を頭で理解するよりも早く、私は千早の腕を振りほどいた。ありえない。ありえない。信じたくない。

「私は認めない!」

 そうだ。私は約束していた。ここでずっと待っていれば、彼と逢えると。だからずっと待ち続けていた。
 彼との約束を果たすためにこの場所を訪れた。何十回、何百回、何千回。彼の姿を探して歩き回った。

 何千回? 私はふと自分の足元を見た。
 私がずっと座っていた桜の樹の根元。
 そこにはぼろぼろになった髑髏がひっそりと埋もれていた。

 これは私だ、心で受け止めるよりも早く、私は分かってしまった。言葉が上手く出ない。

「見たくないものは見えない。聞きたくないものは聞こえない。幽霊にはよくあることなのよ」

 千早は持っていた花を骨の隣に添えた。紫露草、私の誕生花。
 厳然たる事実を突き付けられた私は、ただ茫然と彼女の様子を眺めることしかできなかった。
 私が何も言い返さないことを確かめた千早は、手を合わせて黙祷を始めた。

 憎まれていると思っていた女に弔われるとは、なんて滑稽なことだろう!!

 嫉妬、憤怒、羨望、絶望。思いつく限りのどす黒い感情がごぼごぼと這い上がってくる。
 理性の枷から解き放たれたそれらを従えることができない。膝を地に落とした。瞳孔が乾く。頭が痛い。
 小刻みに身体が震える。寒い。千早はそんな私の姿を何も言わずに見つめていた。

「私がここに来たのはね、律子」
「もういい……分かってる」

 彼女は私を迎えに来たのだろう。同じ事務所で仕事をした仲間として、同じ男を愛した女として。
 だけど、この事実をすぐに受け入れる程、私の心は寛大ではなかった。

「明日また来るわ。その時までに答えを出しておいて」

 ひどく優しい口調だった。立ち上がれない私に微笑んで、千早は闇に溶けていった。
 彼女の気配がなくなってからしばらくして、私は地面に突っ伏した。ざらりと濡れた土の感触が温かい。

 一緒に往くか、このまま残るか。簡単な二択。だけど簡単すぎて逆に怖い。決断するに足りる決意が足りない。
 なんとはなしに視線を前に向けると、白い頭蓋と目が逢った。眼窩の奥は深い深い闇だった。
 これが私か。この事実に気付かないまま、一体私は幾年の時を過ごしたのだろう。どれだけ孤独な夜を過ごしたのだろう。
 それすらも分からない。今となってはもう遅すぎるのかもしれない。
 ぽかんと骨に空いた闇を見つめながら、懐かしいあの頃に思いを馳せる。

 私がいて、みんながいて、彼がいた。あの頃は何もかもがキラキラと輝いていたような気がする。


    律子なら大丈夫だ。
    どうしてそんなに卑屈になる? お前は卑屈になっていい人間じゃない。
    律子、いくぞ。

    俺は律子を信じてる。ずっと信じてる。

 
 「……ばか。死んだら何もならないじゃない」

 今にも崩れてしまいそうな頭蓋の顎に手を沿わせた。彼は何を思って私の身体を引き寄せたのだろうか。
 彼と口づけをした後の会話を思い出す。

   俺はな、律子。天にまで届くような歌を作りたいんだ。お前と俺なら、それができる。
     天って、千早にまで届けるってこと?
   そうだ。千早は歌姫だ。こっちがいい歌を作れば、きっと対抗心燃やして天国から化けて出てくるぞ。
     私と千早、どっちが大切なのよ。
   どっちもだ。俺は我儘だからな。どっちも俺の女だ。
    
 仕事は敏腕なくせして、こういう恋愛に関しては子供よりも馬鹿な男だった。
 頭蓋の顎を撫でながら、彼の面影を瞳の奥で描く。そういえばこんな感じで無骨な顔だった。
 徹夜明けで無精髭を伸ばし、ぼさぼさになった髪を掻いて、朝っぱらから煙草をふかす人だった。
 不健康極まりない生活だったから、注意したことがある。

   ああ、すまん。忘れてた。

 からっと笑顔でいなされるのだ。愛する女なら全力で尽くさないと、男がすたるだろ? それが彼の口癖だった。
 本当に馬鹿な男。今はどこで何をしているのだろう。彼と会った最後の記憶をたぐりよせる。

 そうだ。最後に彼と話したのは、この桜の樹の下だった。

 急に頭が痛くなる。だけどここで止めてはいけないような気がした。大切な何かがそこにある。そんな直感があった。
 うずたかく積もる記憶の中。埋もれてしまった何かを見つけようと、私はやっきになって記憶の山をかき分ける。

 散ってしまう桜を眺めながら、彼は呟いた。

   なぁ律子。そろそろこの世界で仕事をするの、止めにしようと思うんだ。
   違う!別にお前が嫌いになったってわけじゃない!新しい世界に挑戦してみようと思うんだ。
   お前や千早みたいな女の子がお酒を注いでくれる場所を作って経営したりとか、何だか面白そうだろ?

 あの頃の私はすでに芸能界の頂点にいて、自分がやるべきことはほとんど終わってしまったんだと彼は言った。
 文句の一つでも言ってやりたかったが、彼の無邪気な笑顔に毒気が抜かれてしまって、何も言い返すことができなかった。
 彼はきっと私のところに帰ってくる。そんなよく分からない確信があったのだろう。
 私の機嫌を直そうと必死になる彼がいつもの彼らしくなくて、私は彼の頬を力いっぱい叩いた。
 頬を真っ赤に腫らしているのに、その顔はどこか嬉しそうだった。


   絶対に帰ってくる。お前はここで待っていてくれ。
   お前がいなくても、俺は絶対にここで待っている。
   













 そうだ。

 私が知っている彼は、あの馬鹿は、愛する女の約束を破るような男ではない。

 それなら。私は絶望に打ちひしがれた心をもう一度奮い立たせた。これが最後のあがきだ。
 目の前に転がっている頭蓋骨の顎を開いて、その咥内を丹念に調べた。
 悪魔の所業と言われても構わない。魂が何度壊れても、何度汚れても、幽霊になっても信じたいものがある。
 私の考えが合っているなら、私の願いが叶うならば、答えはそこにある。屍の闇に潜む希望の光がそこにある。

 
 調べ終わった後、私は空に向かって大きく息を吐いた。魂を空に還すように、長く、長く。







 この骨の主は、





  ―――― 月を喰らう ――――




 千早と会って三度目の夜。彼女はまた同じ時間に姿を現した。月が少し削れている。
 薄い雲がゆっくりと月にかかる。光は柔らかく桜の絨毯を照らし出していた。

「答えは出た?」
「ええ」

 落ち着いていることが意外だったのか、千早は驚いた表情をしていた。

「その前に、千早に見せておきたいものがあるの」

 私は傍らに置いてあった頭蓋を彼女に見せる。何年も雨風にさらされていたのだろう、顎の部分は外れかかっていた。
 千早は訝しげに私と頭蓋を見た。どうしていまさら、そう言いたげな目つきだった。

「この骨は私のじゃない」
「……どういうことかしら」

 落ち着いた口調。だけど微かに動揺の色が混じっていたことを私は見逃さなかった。
 やっぱり。鼓動が少しずつ強くなる。私の信じる仮説が、また一歩真実へ近付く。私は言葉を続けた。

「確かに私はここにずっと座っていたけれど、それが私がここで死んだという証拠にはならない」
「そんなの詭弁にすぎないわ。もしそう仮定したとして、どうして律子がその骨の隣にいたのか、説明できるの?」
「できるわ」
「もし説明できたとしても、あなたの考えには証拠がない」

 千早の声は震えていた。あらかた察しがついたのかもしれない。
 残酷な仮説だ。私と千早、両方にとって信じたくない仮説。だからこそ、千早では気付けなかった。

    見たくないものは見えない。聞きたくないものは聞こえない。幽霊にはよくあることなのよ

 千早にとって、私の考えは信じたくない考えそのものなのだ。だからこそ、千早は無意識にその考えを排除したのだろう。
 証拠ならある。私は頭蓋の顎を外し、その中を千早に見せた。



「私、煙草は吸わないのよ」



 頭蓋の中。黄ばんだ歯の裏には、煙草のヤニがこびりついていた。

「嘘……」
「嘘じゃない。ちゃんとここで確かめた」

 私は自分の鼻と舌を指差した。咥内を嗅ぎ、歯列を舐めた。深い口付けをするように。
 屍体に接吻をするなど狂気の沙汰だろう。だけど、私にとってそれは当然の行為の延長上にすぎない。

「千早、気付いているんでしょう?」

 嗅ぎ慣れた匂い、幾度となくなぞった歯の形。
 私と千早にとって、その歯はある人に行きつくしかない証拠そのものなのだ。
 彼女は頭蓋を見つめ呆然と立ち尽くしていた。残酷な仮説だ。だけど探し求めていた答えがそこにはあった。

「その骨の主は、プロデューサーよ」

 そう。プロデューサーはこの樹の下で死んだのだ。
 私は彼の死に逝く様を見ていた。だけど、その頃の私には見えなかったのだ。そして彼も私の姿が見えなかった。
 その頃にはすでに、私は彼のいる世界とは別の世界にいたから。
 
「信じたくない」
「信じたくないなら、信じなければいいわ。だけど、私はそう信じる」

 残酷な仮説だ。疑うに値する位に。
 愛した男を何度も何度も探し求めて、失望の果てに死んだ女、
 死んだ女を何度も何度も探し続けて、絶望の果てに死んだ男。 
 
 愛されたいと望みながら、その先は怖くて目を背けてしまっていた。
 私達は、ねじれて交わらない螺旋をぐるぐると歩き続けていたのだ。
 愚かな仮説だ。信じるに値する位に。

 森の向こう、黒い馬が鳴く声が聞こえた。空を仰ぐと、月を覆っていた雲が風に流されていた。
 何も言わずに髑髏を見つめていた千早は、ようやく瞳に光を灯し、髑髏を私に預けた。

「彼が死んだということは、彼にも会えるのかしら」
「さぁ?」

 とぼけたふりをして千早に返事をすると、彼女は「私達次第なのでしょうね」と笑った。

    見たくないものは見えない。聞きたくないものは聞こえない。幽霊にはよくあることなのよ
    それでは、その逆も然り。

「今日は帰るわ。花束がもう一つ必要みたいだから」
「そう、じゃあまた明日」
「ええ、また明日」

 そう言って千早は闇の中に帰って行った。
 彼女が消えていくのを見送った後、私は今まで腰かけていた桜の樹に身体を預けた。
 桜の枝は、今日も変わらず月に手を伸ばしていた。

 さくら さくら はなふぶき
 さくら さくら さようなら



 嗚呼、桜が月を喰らっている。






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