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一枚絵で書いてみM@STER投稿SSです

2010年02月27日 20:59

お久し振りです。小六です。
一枚絵で書いてみM@STERに投稿させて頂いたSSです。

以下、SSとなります。

    ―――――――――――――――――――――――――――――――


 窓から射し込む陽気はぽかぽかと温かく、窓の外からは静かに景色が流れていった。
 空に舞う桜の花びら。女性ソプラノの声がピアノをお供に軽やかに車内を歩き回っている。

「"La Boheme"の"Quando me'n vo"」

 うら若き美女ムゼッタが、かつての恋人の気を引こうとする歌だ。自信に満ち溢れた女性の歌。

「はい。今日という日にはうってつけの曲かと」
「……新堂。あなたこの曲を知っているわよね?」
「さぁどうでしょう。お気に召さないのでしたら曲を変えましょうか?」
「いいえ、結構。そこまで聞いていないもの」

 私の言葉を受けて新堂は笑った。知っているくせに。それが気に入らなくて私はため息をつく。私は肘掛に肘を置いて流れる景色を眺めることにした。見上げた空が眩しかった。4月の空気はやわらかく、その眩しさすら包み込んでゆく気すら覚える。
 目的地に着いたのだろう。車が止まった。助手席に座っていた新堂が私に話しかける。

「お嬢様、到着しましたよ」
「ありがとう」

 色鮮やかなスプリングコートを受け取り、私は車のドアを開けた。
 ドアを閉める直前、新堂が落ち着いた声で「いってらっしゃいませ」と私に言い残した。

 春の空気はどこか埃っぽい。人の匂いや草木の香り。浮き立つ想いと揺れ動く心。様々なものが温かい空気に溶け込んでいるからなのかもしれない。花と花を飛び交うアゲハの如く、私は街の雑踏をくぐり抜けて行った。目の前にはせわしく行き交う車。騒がしい風。空は青過ぎる位青く澄み渡っていた。私は車をぼんやりと眺めながら、あの日のことを思い返す。


  信号が青に変わる。春の風に背中を押され、私は歩を踏み出した。
  あの時からもう何年経ったのだろうか。忘れようとしても忘れらない記憶。



      あの日、あの時、あの場所で

        天海春香は死んだのだ



 ふわり、桜が舞った。




  ――――  花の融点  ――――






 安普請の事務所の中は暖房がついているのにどこか肌寒く、窓からは雪がちらほらと降っている。その事務所の中、私と春香はプロデューサーの前に立っていた。プロデューサーはぼんやりと机の上にあるパソコンモニターを眺める。


「ユニット解散……ですか」
「あぁ」

 プロデューサーは言葉少なげに答え、私達から視線を逸らした。


   『将来性が認められないため』


 なんの味気もない一行の文章だった。あっけない最期だった。
 春香とユニットを組んで数ヶ月。たったそれだけの期間で一体どれほどの将来性が分かるのだろうか。
 そうは思っても、その結論を覆す程の実力を持っていたかと問われれば、ノーと答えるしかない。
 私は涙ぐむ春香の隣で何も言えずに突っ立っていることしかできなかった。

「不満か」

 プロデューサー、いや、元プロデューサーと言った方がいいのかもしれない、その男はくわえた煙草に火をつけ、モニターに煙を吐いた。画面の中には私と春香の写真が写り込んでいる。モニターの中の私達はステージ衣装を着て笑っていた。夢とか希望とか、そういったキラキラと輝くものに満ち溢れた笑顔だった。

「俺も不満だ。だけど、これが現実だ」
「そんな……だからって…!!」
「諦めろ」

 目の前の男はパソコンからCDを取り出し、それを私達に手渡した。おそらく中身は今までの活動記録といったところだろう。私の輝きはこんなちっぽけなCDに納まってしまうものなのか。現代の技術の高さに驚きはしたが、そこまで悲しくもならなかった。
 ちっぽけな子供が叫ぶ声など、所詮こんなものなのかもしれない。タイトルだけが付されたCDケースを見つめながらそう思った。

「まだ……まだやれます!私、このユニットが続けられるなら何でもやります!」
「そうか。じゃあとりあえず枕営業でもしてもらおうか」
「……!!」

 下卑た笑みを浮かべながら、男は煙草の先を春香に向けた。煙草を私達の前で吸うなんていつ以来だろう。春香は張り裂けそうな感情を必死にこらえているようだった。この人がどうして、ずっと信じていたのに。そう言いたげな春香の視線。その瞳の色があまりにも純粋すぎて、彼女の瞳を見つめ続けるには私はあまりにも世の中の汚れを知り過ぎていた。行き場を失って漂う紫煙の先、私はモニターを見つめて思いを押し殺すことしかできない。

「二人とも」男は大きく煙を吸い込んで、吐き出した。「これでさよならだ」
「……プロデューサーさんのバカっ!!」

 悲痛な叫びが事務所に響く。事務所の外に駆け出していった。
 すれ違いざまに見えた彼女の顔は、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。
 男は二本目の煙草に火をつけ、私はモニターを見つめていた。



       『天海春香』と『水瀬伊織』は死んだのだ


   耳障りな残響を感じながら、その言葉はすとんと心に落ちた




 静まり返った部屋。冬将軍ががたがたと窓を叩いている。
 春香はいなくなったのに、彼女の言葉は音叉のように私の頭の中で震えていた。

「……これでよかったんだろう?」
「えぇ。私の下僕にしてはなかなかの演技だったわ」
「自分から春香に伝えるのか?なんだったら」
「結構よ」

 私の言葉が震えていることを感じ取ったのか、彼はそれ以上何も言わなかった。彼はオフィスチェアの背もたれに背中を預け、天井に煙を逃がす。白い煙は静かに無秩序に天井へ消えていった。情熱とか夢とか希望とか、そういったきらきらとした何かが、幽体離脱したかのように抜けていくように感じた。

「自分の事くらい、自分でケジメをつけなきゃカッコつかないでしょ」
「つらいぞ」
「分かってるわよ。だけど、そうしないといけないのよ」
「……そうか」

 彼はそれ以上何も言わず、その代わりに私の頭を撫でた。ぽんぽんと、赤子をあやすように。
 分かっている。これは私のワガママなのだ。そして彼と春香は私のワガママに付き合わされた被害者なのだ。
 分かってはいるけれど何故か謝ることはできなくて。私はただ、ぐうっと胸から込み上げてくる息苦しい何かをこらえることしかできない。
 この世界に神様がいるならば、喉が枯れる位に大きな声で叫びたかった。


   私はまだ14歳の女の子なのよ
   まだ夢を見続けてもいい年頃なのよ
   可愛いワガママなら笑って許してくれるはずでしょう?


 だけど、叫ぶことができる程の幼さはなくて、かといって心に納めることができる程の老獪さもなくて。
 どっちつかずの私は、ただただ涙をこらえながら前をにらみつけることしかできなかった。


「行ってくるわ。春香ならきっと公園のベンチに座ってベソでもかいてるはずだから」
「伊織」 扉のノブに手をかけようとした時、彼が私の名前を呼んだ。
「何よ」
「俺はずっと待ってる」 迷いなどない、彼らしい声だった。

「酔狂なことね」ドアノブに写る自分だけを見つめるように意識して、私は彼の言葉に答えた。
「せいぜい有名なプロデューサーにでもなって、超絶美女になった私と話せる日を夢見てなさい」


 そう言い残して、私は事務所の扉を開けた。




  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 鈍色の雲がずんぐりと拡がっていた。事務所の外は、空が泣き声を押し殺しているかのような静けさに包まれている。東京でこれほど雪が降るなんて。吐息すら凍り付いてしまいそうな空の下、私は春香がいつも練習に使っていた公園に向かった。もう付き合う必要のない関係なのにどうして気にかかって仕方がないのだろう。そんな自分の性格に唾を吐きたくなる。公園に程近い横断歩道までたどり着くと、案の定公園のグラウンドに春香が座り込んでいるのが見えた。
 信号が青に変わる。どうしてもアイツに話したいことがある。私は薄い氷で覆われた横断歩道をトロットで走り抜けた。


「春香」
「あ、伊織」
「……アンタ、何やってんのよ」
「何って…」

 春香は私の言葉を受けて、視線を前に遣る。視線の先には小さい雪だるまがちょこんと立っていた。

「雪だるま、作ってた」
「それ位見れば分かるわよ」

 昔から少し抜けたところのあるヤツだとは思っていたけれど、まさかこれほどとは。
 カッコ悪いところを見せたくなくて、きっと公園で一人泣いているに違いない。そう思った私が馬鹿だった。私はため息をつく。
 雪は未だに降り続けていて、空から響く重低音と枝葉のささめきだけが聞こえていた。

「ねぇ、伊織」
「何よ」
「私は続けるよ」

 何を続けるのか、なんて尋ねるのは愚問だ。コイツが一度失敗した位ではくじけない情熱の持ち主であることは知っている。
 ではなぜ、わざわざそれを私に話したのか。理由なんて分かってる。私『は』なんて、もったいぶった言い方にも程がある。

「私は降りるわ」
「……そっか」

 春香は私の言葉を聞きながら雪を握り締め、そして空に散らせた。粉雪は軽く握るだけでは固まらない。
 さらさらと指から消えてゆく雪を見るのに満足したのか、春香は年寄り臭い声とともに立ち上がった。

「大体アイドルなんてね。飽きられたらすぐにポイ。飽きられなくても使えなきゃポイ。いいことなんてありゃしないわ」
「そうだね」
「世の中にはアイドルの他にも色んな仕事があるのよ。それこそ私達がアイドルやっていた時間であの頃の10倍は稼げる仕事もあるわ」
「うん」
「だから私は降りるの。こんな割に合わない仕事、こっちから願い下げよ」

 春香は何も言わずに微笑んだ。もう何も言わなくていいよ、ちゃんと分かってるから。そんな悲しげな表情。
 私は春香の顔を見てぐっと息を噛み殺した。


 あぁ。どうして私は肝心なところで素直になれないのだろう。
 責められるべきは私のはずなのに、コイツは嫌な顔もしないで笑う。
 なんでそんなに平気な顔をしていられるのか。やりきれない思いそのままに、私は語気を強めて叫んだ。


「どうして笑っていられるの!この解散だって本当は」

    アイドルを続けられなくなった私から言い出したものなのよ!!

 出すはずの言葉は春香の指先で留められた。唇に滑らかなレザーの感触。彼女は優しく微笑んだ。

「分かってるから」

 ざくり、雪を踏む音。私が彼女から一歩退いたからだ。

 私だって分かってる。アンタのその笑顔は空笑いなんだってこと。
 ずっと一緒に歌っていたい。そんな思いを必死に押し殺してること位分かる。一体どれだけアンタの隣で歌ってきたと思ってるのよ。
 心の垣根を簡単に飛び越えてしまえるのに、肝心なところでワガママが言えない性格。
 真逆のようでどこか似ている私達が過ごした季節は、チグハグなりにも楽しかった。

 それが今、終わる。かつての希望を冠した雪だるまも、この季節が過ぎれば溶けて消えてしまうのだ。

「ねぇ、春香」
「うん?」

 だから。だからせめて。雪だるまが溶けるまで、私のことをコイツに覚えていて欲しかった。

「これから3つ、なぞなぞを出す。アンタは歌で答えなさい。全部正解したら、アンタと歌うこと、もう一度考えてあげる」

 春香は一瞬不思議そうな顔をした後、笑顔で答える。

「それは今?それとも今から?」
「どっちでもいいわ」
「えへへ」
「何笑ってんのよ」
「意外と早く分かっちゃいそうだから」

 無邪気に笑うその顔は自信たっぷりで、嘘偽りなど全くもって見当たらなかった。

「ああそう。私はそんなに優しくないわよ」
「うん。分かってる」

 私は一つ息を吸った後、ゆっくりと謎を吐き出した。


  一つ目。どんな世界にも住んでいて、全ての人の上にいるもの
  二つ目。炎のように燃え上がるけど、炎ではないもの
  三つ目。宵に生まれ、夜明けに死んでいくもの



 幼い頃見たオペラを思い出す。確かこういうオペラがあったはずだ。氷のように美しいお姫様の話。
 自分をその姫に例えたわけではないけれど、今日という日はあまりにも寒かったからか、ふとそんなことを思った。

「ねぇ、伊織」

 私のなぞなぞを聞いた春香は、嬉しそうな瞳をして私を呼んだ。

「何よ」
「このなぞなぞが出来たら、伊織はまた私と歌ってくれるんだよね」
「………できたらね」

 実を言えば、この謎かけは永遠に謎のままであってほしかったのかもしれない。
 そんな私の思惑をよそに、彼女はこう提案した。

「もし、全部なぞなぞが解けたとき、もしもだよ。伊織が私と歌ってもいいって思ってくれるなら」
「くれるなら?」
「私の名前を呼んで」
「はぁ?じゃあ私が『春香』って呼べば、アンタはいつでも歌いにくるわけ?」

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「違うよ。『春香』は芸名だもん、本当の名前じゃない」
「アンタの本当の名前なんて知らないわよ」
「すぐに分かるから」

 辞表も出してしまった手前、今から事務所に行って彼女の履歴書を探すことはできない。
 ある意味コイツなりの謎かけなのだろう。謎かけの返答を謎かけで返すなんて、なかなか粋じゃないか。

「歌いたくないと思うならどうするのよ」
「別に何もしないでいいよ」
「……ずいぶん意味の分からない要求ね」
「伊織のなぞなぞ程じゃないと思うな」

 この私にしてこの元相方である。こうなると退かないこと位、私が一番知っている。私は肩をすくめた。

「それでいいわよ。アンタがなぞなぞを全部解いた時、私がアンタと歌いたいと思ったら、アンタの本当の名前を呼べばいいのね」
「あ、直接言ってくれないと分からないよ。その頃には私、トップアイドルになってるから」
「…せいぜい楽しみにしてるわ」
「うん」

 冬の夕暮れは瞬く間に終わってしまうもので、太陽はすっかり沈みきり、下弦の月が姿を現していた。
 ぽつぽつと街灯が点き始める。夜は近い。人工の冷たい光の中に舞う雪はまるで―――

「桜みたいだね」

 そう意味深に呟いて、春香は瞳を閉じる。
 瞼の裏にはきっと満開の桜の花が舞っているのだろう。しばらくして春香は瞳を開けた。

「それじゃ、そろそろ時間だから帰るね」
「ええ」

 向かいの横断歩道を危うい足つきで通り過ぎ、彼女は帰途についた。
 そして、それが私と春香の別れだった。
 



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆





 この数年間で東京の街を色々巡った。もっぱら親戚の仕事についていっただけだけれど、それでも私にとっては大事な付き合いなのだ。
 昨日メールで指定されていた場所に着くと、昔と変わらないスーツ姿の男がそこに立っていた。

「元気か」
「まぁそれなりに」
「そうか」

 彼は相変わらず煙草を口にくわえていて、私と会ってもそのスタイルは変わらなかった。

「禁煙したらどう」
「あいにく、煙草がない生活なんて考えられないんでね」

 煙草を吸わないのは担当のアイドルが目の前にいるとき位だ、そう言って携帯灰皿で煙草の火を押し潰した。

「綺麗になったな」
「アンタもそこそこ有名になったのね」
「…行くか」
「ええ」

 『さくら通り』とはよく言ったもので、私達が歩く道沿いに植えられた桜並木は壮観だった。それを見に来たのか、はたまたそれを口実にしたいのか、近くの公園には大勢の花見客が場所取りに精を出している。祭りの前の静けさと昂ぶり。そんな風景を目の端に捉えながら、私はアイツの歩いてきた道を思い返した。


  結論から言えば、アイツは見事に私の謎かけを解いてみせた。
  いや、あの謎かけをしたときから彼女には答えが分かっていたのかもしれない。
  もともとあの謎かけ自体、正解なんてなかった。アイツが出した答えが正解になる。そんな類の謎かけだったのだ。
  私はただ、その謎かけを通して、彼女の気持ちを確かめたかっただけなのかもしれない。



 一つ目。どんな世界にも住んでいて、全ての人の上にいるもの。

  それは太陽。
  アイドル活動を再開して初めての曲は私達が歌う予定であった曲。答えに気付いていたからこそ出せたデビューシングル。
  恋人達の逢瀬に嫉妬する太陽の歌は、無名だった彼女に眩しいほどの光を与えた。


 二つ目。炎のように燃え上がるけど、炎ではないもの。
 
  それは情念。
  照らし出された夢への好機を彼女が逃すはずなどなかった。今までの彼女のイメージを一新させるセカンドシングル。
  なりふり構わず、ただがむしゃらに愛を求める歌。アイツは彼女自身の力で、トップアイドルの座を手中に収めた。



「まさかアイツがここまで歌にこだわるとは思わなかった」
「あらそう。私はきっと歌ってくれるって信じてたわ」

 実を言えば、私もここで諦めてくれると思っていた。この曲を聴いたとき、彼女のアイドルというものへの憧れが本物であることを痛感した。憧れというよりも、執念といった方がいいのかもしれない。どんなことをしてでも欲しいと願ったものを手に入れるその姿勢。私になくて彼女にあるもの。
 うすうす感じてはいたけれど、アイツは真性の馬鹿だ。馬鹿だから世間のイメージなんて気にしないのだろう。いや、気にしないというよりも、見えちゃいない。やるだけやった後、自分のしでかしたことに気付いて、あたふたと戸惑っていたに違いない。そういえばそんなヤツだ。ホントに馬鹿なんだから。

「うれしそうだな」

 ニヤニヤと笑うその仕草が気に入らなくて、私は彼のすねをしたたかに蹴りつける。
 鈍いうめき声を洩らして、彼は路上にうずくまった。

「ごめんなさい。聞こえなかったの」
「そうかい。じゃあもういち…ぐぉぇ!」

 すねを蹴りつけただけでは分からないらしい。私はへたりこんだ彼の顔にヒールをねじ込む。お節介な性格、何とかならないのかしら。
 これ以上やると「ご褒美ですありがとうございます」とかなんとか、そんな変なスイッチが入ることも過去の経験上知っていたのでほどほどにしておいた。これさえなければ一流なのに。私はため息をつく。

 ふらつく彼を尻目にすたすたと歩くのも何だか気が進まないので、近くにあったベンチに座って話すことにした。
 花見客が持ってきたラジオだろうか、彼女の歌声が耳に入った。楽しそうな歌声。



 三つ目。宵に生まれ、夜明けに死んでいくもの。

   それは希望。
   トップアイドルとして不動の地位を築いた彼女はなおも歌い続けた。最近行われたロックフェスタで発表された新曲。
   女の子の明日を応援する曲。等身大のアイドル。何だか逆説的だけれど、トップアイドルになってもアイツはアイツのままだった。


 そして、歌詞にある言葉がないと気付いた時、彼女は私の手の届かないところへ行ってしまったのだということを知った。
 ベンチに積もった花びらを手で払いのけ、私と彼はそこに座る。アイツから事情を聞いているのだろう、彼は単刀直入に私に尋ねた。


「それで、アイツに渡したいものがあるんだろう?」
「ええ。約束だから」

 顔を上げると瀟洒なビルが空に向かって伸びているのが分かった。今のアイツが所属する事務所だ。ガラス張りの建物は青を映し、陽光を受けて輝いている。目を細めながらその立姿眺めていると、ごうと風が吹いた。舗道に植えられた桜の木々から、数え切れない花びらが風にさらわれていく。まるで雪のようだ。空に手をかざすと、数枚の花びらが掌に舞い降りた。
 やさしい春の色。私はそれを確認して、彼にそれを差し出した。

「これをアイツに見せてやって」

 私の掌を見た彼は「正解だ」と呟き、悲しそうな顔をそのままに私に尋ねた。

「自分から伝えに行かないんだな」
「……それが答えだから」

 私の言葉を聞いた彼は「そうか」と呟き、寂しそうな顔をして空を仰いだ。

 この数年間。私達はとにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、ただただあがき続けた。
 それが具体的に何を指すのかも、どこから沸いてくるかも分からないまま、溺れる様に前に進み続けた。
 気付けば私達は互いに手の届かない場所にまで離れてしまって。魂が風化していくことが、ひたすら辛かった。

 そしていつだっただろう。あの頃私を苛んでいた切実な想いが、とめどなく流れる月日に綺麗に流されていたことに気付いた。
 こんな私がアイツと一緒に歌えるわけがない。そんな茫漠とした白い実感に私の心は染まっていた。




      その日、その時、その場所で

        水瀬伊織は死んだのだ




 もう引き返すことのできない場所まで来てしまったのだ。時間はもうお昼前で、上弦の月が白く淡く空に溶けている。どこかのラジオからアイツの声が聞こえた。私はそっと瞳を閉じて、あの約束をした風景を瞼の裏に思い浮かべる。
 あの頃の私達はまだ子供だった。夢見れば何でも叶う。何の疑問もなく私達はそう信じていた。

 もう時間だ。ラジオのリピートをすることなどできない。アイツの歌声が聞こえなくなったのをきっかけに、ゆっくりと瞳を開けた。

「それじゃあ、行くわ」
「ああ」

 ベンチから立ち上がり、私は待たせてある車の元へ向かう。顧客とのミーティングの時間まであまり時間がない。私は歩を早めた。
 この辺りは桜の名所らしく、春になると道は観光客でごったがえすのだ。アイドルではないにせよ、そこそこ名が知られている私にとって長居すべき場所ではない。人ごみの中、私は横断歩道を歩いた。



       懐かしい春の香り



 すれ違う人ごみの中、鮮やかにフラッシュバックする記憶。それはまるで水紋のように私の心に波を立てた。
 振り返るまい。そうは思っても数秒のためらいの後、後ろを振り返ってしまった。信号が赤に変わる。横断歩道の先はせわしく通り過ぎる車に遮られ、香りの主は人ごみの中に紛れてしまった。きっとアイツと会うことはもうないのだろう。漠然とだけど、そんな確信があった。
 私はしばらく横断歩道の先を見つめてから、自分が帰るべき場所に足を向けた。



       この日、この時、この場所で

      天海春香は、私の心の中で死んだのだ



 ひらり、花が散った。






   春の訪れとともに蕾を開き、別れと始まりを人に告げるもの
   煙のようにうつろいながら、儚くも美しく心に舞い踊るもの

   其の名は ―――









         <了>


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